そんな疑問にお答えします。
私はマクラーレンと言えば、マクラーレン・ホンダやマクラーレン・メルセデスなどのF1カーのことをイメージします。
マクラーレン・ホンダやマクラーレン・メルセデスみたいにマクラーレン+〇〇で、「マクラーレン」という単体のワードで聞いたことはありません。
そこで「どのような会社なんだろう?」と思い、調べてみる事に。
調べてみると、ビックリ。
創設者は、志(こころざし)半ばで、生涯を閉じてしまったのです。
創設者の思いは、だれが引き継いだのでしょうか。
どのような方法で、マクラーレンをここまで成長させたのでしょう。
この記事は、2人の人物に焦点を当て、マクラーレンの歴史を紹介しています。
人生で岐路にたたされることや、人生の道に迷うことは必ず訪れます。
その時は、この記事に書かれていたことを思い出してください。
きっと、進むべき道の道標(みちしるべ)になってくれるはずです。
目次
私たちは仲間!マクラーレングループ
マクラーレンの正式名称は、マクラーレンテクノロジーグループ(Mclaren TECHNOLOGY GROUP)です。
マクラーレンは、イングランド・サリー州ウォーキングを本拠地にして、主に3つの企業から構成されています。
早速、マクラーレンを構成している3つの企業を見ていきましょう。
マクラーレンレーシング/McLaren Racing
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出典:Instagram
英国を代表するF1チームで、F1チームの中で2番目に古いチームとなります。
1963年にニュージランドのレーシングドライバー、ブルース・マクラーレンによって設立されました。
マクラーレンレーシングは、2010 年にカーボン トラスト スタンダードを授与された最初の F1 チームです。
カーボントラストスタンダートとは
日本語名は、カーボントラスト基準と言います。
英国政府により設立され、その後独立した環境コンサル組織です。
ミッションは持続可能な低炭素社会への移行を加速させることであり、英国社会でもネットゼロにおいて中心的な役割を担っています。
日本のメーカーのホンダと提携していた時期もありましたが、2022年現在はメルセデスと手を組んでいます。
マクラーレンオートモーティブ/McLaren Automotive
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フォーミラー1(F1)の技術と専門知識を駆使して、世界で最も先進的なスポーツカーを製造している企業です。
マクラーレンの車両は、英国のサリー州ウォーキングにあるマクラーレンプロダクションセンター(MPC)で1つ1つ手作業で組み立てられています。
2010年に発足した、マクラーレングループの最大の企業。
現在は、最先端のハイブリットスポーツカーに力を注いでいます。
マクラーレンオートモーティブの紹介動画です。
車好きにはたまらない、動画ですね。
出典:YouTube
マクラーレンアプライド/McLaren Applied Technologies
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主にフォーミラー1(F1)のエレクトロニックコントロールユニット(ECU)、センサーなどといったモータースポーツ用電子制御部品を製造・供給している企業です。
ちょうど1年前に、英国のテクノロジー企業であるグレイブル・キャピタルに売却されました。
親元が変わっただけで、社名も所在地も事業内容もかわりません。
親元が変わろうが、マクラーレンアプライドはマクラーレンの仲間です。
マクラーレンの歴史を紐解こう!
マクラーレンの歴史を紐解いていきましょう。
マクラーレンを設立したのは誰でしょうか?
ここまで有名になった経緯は?
マクラーレンの歴史を紐解いていくと、衝撃的な展開が待っていました。
マクラーレンの創設者!ブルース・レズリー・マクラーレン
出典:Pinterest
マクラーレンの創設者ブルース・レズリー・マクラーレンは、1937年8月にニュージーランドのオークランドで生誕します。
F1チャンピオンシップの歴史の中で、最も成功したマクラーレンを創立した人物になるとは、この時は誰も想像はできませんでした。
マクラーレンは、9歳の時骨の病気「パース病」にかかってしまいます。
3年間の闘病生活の末、病魔に勝ちました。
しかし、戦いの代償として左足は右足より4㎝縮んでしまいます。
左足が4㎝縮んでもブルース・レズリー・マクラーレンは気にせず、すくすくと育っちました。
そして、14歳の時父が作った車でレースの大会に参加。
なんと、初めてのレースの大会で優勝しました。
この時、マクラーレンは拳を天高く突き上げて、こう思ったに違いありません。
「オレはレーサー王になる男だ」と。
次々にレースの大会に参加して、好成績を収めます。
21歳の時奨学金をかけたレースに出場し、みごとに優勝。
有望なレーサーをイギリス留学させる制度の第一号になり、留学先のイギリスに赴(おもむ)きます。
イギリスに留学しても好成績を維持し、マシンもクーバーからF2、F1とランクをあげていきました。
22歳のときF1で初優勝します。
22歳104日での初優勝は、マクラーレンが初優勝してから43年間破られない最年少記録となりました。
その後、成績が低迷しはじめ、マシンの性能に疑問を感じるようになります。
マクラーレンを設立
出典:F1-Gate.com
1963年にアメリカの起業家テディ・メイヤーらとプライベートチーム「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」を設立。
これが、マクラーレンの誕生の瞬間です。
ブルース・マクラーレン・モーターレーシングは、1964年に創立されたタスマンシリーズのクーパー部門で、初代チャンピオンを獲得します。
1966年にはクーパーから独立し、オリジナルシャシーを製造するコンストラクターとして活動を始めました。
コンストラクターとは
レーシングマシンの製造者のことです。
F1チームは、各チームがマシンを製作する規定となっているので、チームがそのままコンストラクターとなります。
F1に参戦したのはいいが、良いエンジンに恵まれず悪戦苦闘の毎日。
1968年にレース仲間、ハルムをチームメイトに迎えます。
ブルース・レズリー・マクラーレンはオーナーという立場であったが、友人のハルムをNo1ドライバーの座を譲(ゆず)ります。
ブルース・レズリー・マクラーレン本人は、No2ドライバーになることを快(こころよ)く了解しました。
チームの為、自分はNo2を重んじる。
なんて、心が広い人物なのでしょう。
エンジンもフォード・コスワースのDFVエンジンを採用。
これが功を奏し、デビュー戦は2位、第4戦のベルギーグランプリ戦で優勝を飾ります。
優勝した時のドライバーはチームのオーナーのブルース・レズリー・マクラーレンです。
チームメートのハルムはその年2勝をあげ、最終戦までチャンピオン争いを展開していましたが、3位で終わります。
コンストラクターズでは、チームロータスに次ぐ2位に入り、Topチームの仲間入りを果たします。
この年の成績で、ブルース・レズリー・マクラーレンのチームは「良いエンジンさえ手に入れれば優秀なマシンを作れる」ことを立証したのでした。
ブルース・レズリー・マクラーレンとの別れ
出典:レスポンス
ブルース・レズリー・マクラーレンとの別れは、突然やってきた。
1970年6月、グッドウッド・サーキットで、新型M8Dのテスト走行をしていた時です。
マシンの後部のカウルがウィングごと脱落してクラッシュ。
このクラッシュが原因で帰らぬ人に。
享年32。あまりにも若すぎる死です。
オーナーでもあり、ドライバーでもあるブルース・レズリー・マクラーレンの死は、チームに大きな影響を与えます。
ムードが暗くなり、とてもレースが出来る状態ではありません。
この状況を救ったのが、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングを一緒に立ち上げたテディ・メイヤーです。
ブルース・レズリー・マクラーレンの遺志を引き継ぎ、ブルース・レズリー・マクラーレンの死の4年後、1974年にF1のチャンピオンになり初タイトルを獲得するのでした。
その後低迷期を得て、アイルトン・セナやミカエル・ハッキネンら複数のチャンピオンを排出するチームとしてトップを君臨し続けています。
「マクラーレン」のブランド名で公道を走る車を作るというブルース・レズリー・マクラーレンの夢を、1992年にマクラーレン・F1という車種で実現しました。
ブルース・レズリー・マクラーレンの生涯を映画にした「マクラーレン ~F1に魅せられた男〜」の予告動画です。
日本ではDVDやブルーレイで発売されています。
出典:YouTube
マクラーレンを乗りこなす男。アイルトン・セナ
マクラーレンを語るには、アイルトン・セナ氏を紹介しないわけにはいけません。
超一流と言われる程のドライブテクニックを持ち、マクラーレンの車種名にもなっています。
アイルトン・セナ氏は、マクラーレンを有名にした人物なのです。
アイルトン・セナ氏は1994年のレース中の事故で、突然あの世に旅立ってしまいました。
レース中の事故から約30年。
私は、あの事故の映像を昨日の出来事のように鮮明に覚えています。
伝説はここから始まった
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アイルトン・セナ氏の本名はアイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)と言います。
1960年3月にブラジルのサンパウロで生まれました。
セナは、優れた運動神経を持っており、運動やその他のスポーツを得意としていました。
モータースポーツとの出会いは、彼が7歳の時です。
家族が経営している牧場で初めてジープを運転しました。
もうすでに、レーサーとしての才能が芽生え始めていたのでしょう。
クラッチなしでギアチェンジをする方法を、この時取得しました。
セナが初めてカーレースに出場したのが13歳の時です。
当然だれもが「優勝」と思っていましたが、人生はそんなに甘くありません。
ライバルの1人と接触してリタイヤ。
ほろ苦いデビュー戦となりました。
F1に参入!国民的スターに
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その後、世界各地のカーレースに参戦して好成績を納めます。
フォーミラーカー、F3とマシンの規格をあげていき、1984年ついにF1に参戦。
トールマンからロータスへとチームを渡り歩き、1988年にマクラーレンと出会います。
マクラーレンの出会いがアイルトン・セナ氏のターニングポイントだったのでしょう。
マクラーレンと出会うことで、アイルトン・セナ氏の才能は一気に開花します。
その当時、マクラーレンの特徴である赤と白のツートンカラーの車体にのるアイルトン・セナ氏を、表彰台から見ない日はなかったくらいです。
シーズンチャンピオンにもなり、次々と当時の記録を塗り替えていきました。
約6年お世話になった、マクラーレンに別れを告げて、ウィリアムズ・ルノーに移籍することに。
ウィリアムズ・ルノーに移籍4戦目で、あの事故を起きます。
タイヤは飛んでいき、車体の半分が大破。
壊れた車体から、衝撃の凄さを語っています。
事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となりました。
そして伝説に
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セナの死は、母国ブラジルでは衝撃を受ける出来事でした。
国技でもあるサッカー中継を辞め、黙祷(もくとう)を捧げます。
事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売し、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えました。
ブラジルにとって、アイルトン・セナは英雄(ヒーロー)です。
英雄の死であったため、国葬が行われました。
ブラジル政府は、セナの命日にあたる5月1日を交通安全の日と制定。
サンパウロ州政府は、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodo via Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念しました。
アイルトン・セナが映画になった時の予告動画です。
アイルトンセナ氏の人生は、波乱万丈でした。
出典:YouTube
人生の道標!アイルトン・セナ氏の名言5選
最後にアイルトン・セナ氏の格言を紹介して、終わりにしましょう。
セナ氏の名言は、心に「グッと」くるものばかり。
人生の岐路に立った時などに聞けば、きっと人生の道標(みちしるべ)になってくれるでしょう。
全力で走った時にかく汗とは、実に気持ちの良いものだ。
だから人生で大汗をかいて欲しい。
そうすれば結果どうあれ決して後悔はしない。
皆さんは、全力で取り組めることをお持ちですか。
私は残念なことに持っていません。
毎日、決められた時間に会社に行き、決められた時間にご飯を食べ、決められた時間に寝る。
これではダメです。
小さなことでもいいので、人生で全力で取り組めることを探して実行してみましょう。
全力で取り組めることがあれば、人生という劇が終幕する瞬間、「わが生涯に悔いはなかった。」と清々(すがすが)しい気分で終えることが、きっと出来きますよ。
でも、全力で取り組めることを見つけることは難しいものです。
本当の頂点がどこなのかはまだわからない。
意味深い言葉ですね。
F1界で名をとどろかせ、年間チャンピオンを取った人が、まだ「テッペン」が分からないなんて。
野球界のレジェンドのイチロー氏も同じ事を言っていた気がします。
レジェンドと言われている人たちは、私たち一般庶民がテッペンと思っているところはテッペンではなく、見えてないテッペンを探すために、努力をし続けるのですね。
生きるならば、完全な、そして強烈な人生を送りたい。
僕はそういう人間だ。
事故で死ぬなら、一瞬のうちに死にたい。
まさにセナ氏の人生。
セナ氏は悔いがなく、あの世に旅立ったことでしょう。
あなたが誰であろうと、どんな社会的地位にいようと、地位が高かろうと低かろうと、常にものすごい力で、ものすごい渾身さで取り組むことを目標にし、また全てのことに強い愛を込め、神への強い信仰を持てば、いつかたどり着ける。
どうにかしてきっとたどり着けるから。
この格言は、私が一番好きな格言です。
嫌な事が重なり、心が腐っている時期がありました。
「どうせ何やってもダメ出しはされるだろう。」
「どうせ私の意見を聞かないのでしょう。」
と、何もやるのもこのことを心の奥底から思っていました。
その時に、この格言に出会ったのです。
紙に書き出し、目に見えるところに置いておきました。
心が腐り始めたら、この格言を見る。
格言を見て、「自分がやっていることは正しいのだ」と思い直し、目標に向かい突き進む。
時間がかかりましたが、何とか心が腐っている状況から抜け出すことができました。
その当時は、本当につらく嫌なことでしたが、目標を立てて突き進んで良かったと思います。
だって、今は何をやっても楽しいのですから。
「出会いと別れ」マクラーレンと共に歩み、共に生きた2人の人物とは:まとめ
まとめとしまして
- 私たちは仲間!マクラーレングループ
- マクラーレンの歴史を紐解こう!
- マクラーレンを乗りこなす男。アイルトン・セナ
- 人生の道標!アイルトン・セナ氏の名言5選
をご紹介しました。
ブルース・レズリー・マクラーレンやアイルトン・セナは志半ばでこの世を去ってしまいました。
やりたいことが、まだまだたくさんあったに違いありません。
私たちはどうでしょうか。
毎日だらだらと過ごしていませんか。
私たちも悔いが残らないように、毎日を全力で過ごしていきましょう。